いつか、雨はあがる。

虐待でうつ病、パニック障害を発症。自殺未遂、向精神薬・安定剤依存、入院を経て、現在は非正規で働いています。ようやく前向きになれてきました。

多剤投与に気をつけて  向精神薬依存にならないために

過去に暴力や暴言などを受けた覚えがあって、現在薬を服用されている方は、向精神薬や安定剤の依存に気を付けてください。

薬は結局、対症療法でしかありませんので、根本的な治療にはなりません。

 

昨今、心療内科もずいぶんかかりやすいイメージのところになりました。

いざかかろうと、予約を取ろうとしてもどこもいっぱいで、初診が1か月先になってしまうなんてことはザラです。

 

しかし、トラウマやPTSDの治療はなかなか進んでおらず、病院に行って過去のことを訴えたりしても抗鬱剤と安定剤、睡眠薬を出されて終わりのところがほとんどです。

便秘や胃もたれなどの副作用を訴えたら、さらに下剤と胃薬が増えて終わり。

お医者さんは、具合が悪いと言われると、それに応じた薬をどんどん処方するだけです。

現在出ている症状を緩和するのが医者の仕事であり、それ以上でもそれ以下でもないからです。

 

過去の出来事が起因している精神不安定の場合は、どんなに薬を増やしていっても完治することはありません。

治るどころか、怖い過去の記憶から逃げるために、安定剤や睡眠薬をどんどん飲んで、依存に陥ってしまう可能性があります。

現に私がそうでした。

私はアルコールがほとんど飲めない体質のため、お酒に依存することはありませんでしたが、安定剤や睡眠薬をお酒で飲むことによってより深く酩酊し、現実を忘れるということを繰り返し続けました。

それはただ、苦しみを先送りするだけのことで、頭を麻痺させて時間を無駄に過ぎさせるだけのことでした。

 

根本的に治したいと思うのなら、怖くても、過去に起こった出来事としっかり向き合うしかありません。

 

まずはどのようなことをされたのか、信頼できる人や、頼れるカウンセラーに話してみましょう。

話せないなら書いて文章にしてもかまいません。

信頼できる人にメールして読んでもらうのもいいと思います。

思い出したくなくて記憶に蓋をしている部分があったり、自分で思い出さないように記憶を消しているところもあるでしょう。

箇条書きやメモでもかまいません。

時系列にしてみてもいいでしょう。

少しずつ思い出そうと努力していると、だんだんと思い出していきます。

その過程で、ものすごく苦しくなるかもしれません。

吐き気や、眠れなくなったり、悪夢に悩まされたり、拒食に陥ったりする場合もあります。

辛かった当時そのままの情景がまざまざとよみがえったりするかもしれません。

そういう時は無理をせず、少し休んで、少しずつ少しずつでいいと思います。

 

私は自力でこの作業をしてきましたが、腕のいいカウンセラーさんがついていてくれるなら、そのカウンセラーにお任せしながら徐々にやっていくといいと思います。

最初は怒りの気持ちも出てこないかもしれません。

でも、自分が死にたい気持ちは、そのまま=他者への怒りの気持ちなのです。

 

死にたいとあなたが思っているなら、それはあなたが優しい人だから、本当は他者に向けるべき怒りを自分自身に向けているのです。

今まで鬱屈していた怒り、自分で気が付かなかった怒りが、せきをきったようにあふれ出てきたら、毒抜きが始まった証拠です。

 

どうか薬だけに頼らないで、薬は適切な容量を飲むにとどめて、一度過去の辛いことに徹底的に向き合ってみてください。

自殺のリスクがありますから、過去に向き合う時は、親身になってくれる家族や友達が居れば、付いていてもらいましょう。

信頼できる医療機関やカウンセリングを利用しつつ、いろんな人に助けを求めつつやった方がいいと思います。

心の弱さと向き合う時

過去にこんなことをされたということを、このブログを見る人のためにもいろいろ書いておきたいのですが、最近思い出すのが辛くて、こうして記事にしようとPCに向かってみても、なかなか書くことができません。

 

本気で記憶の蓋をあけて、文章に書きとめるのは、苦しい作業ですし、調子を崩しやすいです。

カウンセリングが始まったら、記憶の蓋を開けることについて、何か示唆が得られるかもしれません。

 

テレビを見ていると、虐待やネグレクトで殺される子どものニュースがよくあります。

殺されるに至るまでには、身体的な暴力や、暴言などが、何日も何日もあったのだと思います。1回目の暴力や放置でたまたま死に至ったわけではないでしょう。

子どもにとって地獄のような日々が長く続いたに違いありません。

だんだん暴力やネグレクトがエスカレートして、殺されてしまったのだと思うのです。

さらに、死ぬまでまでいかなくても、日常的な暴力を受け続けたり、一見身体的な虐待などされていないように見えて、ずっと言葉で嫌がらせを言われていたり、性的虐待を受けていたり、

そんな子どもが世の中には今一体どのくらいいるのでしょうか。

そして、この記事を読んでいる方にも、自分の子ども時代に、思い当たることがある人がいるのではないでしょうか。

 

周りが見つけてくれ、適切に保護してくれればいいですが、正しい愛情を持って接してくれる、良識ある大人がどれだけいるのか。

そして、たいていの場合、そういう問題を抱えた家は、秘密主義で閉塞的ですから、よっぽど派手に何かやらかさないと、家庭内の虐待が明るみに出ることはまずありません。

 

私が母から日常的に虐待を受けていたことは、実の父すらも知らないことでした。

そして、子どもにそういうことをする親は、自分自身まともな家庭で育っていないのです。

だから、何が正しいかも分からないし、自分が間違ったことをしているとも分からない。

親自身に悪気が無くても、精神疾患を抱えていたり、知的障害を持っていたり、依存症や嗜癖を持っていたりして、周りに子育てをサポートしてくれる人が誰もいない場合もあります。

 

こうなってくると、「親になるのも免許制にすべき」などという極論も正論に思えてきます。

厳しくしつける、ほめてのばす、管理してみる、反対に放任する・・・

どんな子育てが正しくて、どんな教育がまちがっているかなんて、はっきり決めることはできないでしょう。

ですが、子どもに苦痛を与え続けるのは明らかに間違っています。

大人が苦しいからと、弱い立場の子どもにツケを払わせるのは絶対に間違っています。

 

私は今、なんとか向精神薬、安定剤依存から抜け出していますが、自分の弱さにしっかり向き合わなければ、また何かの拍子に暗闇に落ちてしまうと思います。

そういう不安定さを自覚しています。

たとえば、夫が亡くなってしまったりしたら、たぶんまた、依存症に陥るか、自殺未遂をしてしまうと思います。

どこにも居場所がないからです。

 

そしてこの不安定さは、私の母の不安定さによく似ています。

母もどこにも行き場がなかったのでしょう。

だから、私に取りすがっていたのでしょう。

この負の連鎖は、私で止めなければなりません。

だから、私は子どもを作る気はありません。

何か自分にできることがないか探しながら、人に頼らず、自分の苦しみは自分で癒して、生きて行かなければならないと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

アレルギー症状に悩まされた幼少期~思春期

私は小さいころから、怖いことや辛いことがあると、いつも神様に祈っていました。

近くの神社のお参りにはよく行きましたし、道端のお地蔵さまにも手を合わせました。

家にあったお仏壇にも手を合わせたら良かったのでしょうが、自分の家の仏壇の部屋は一番北側の暗い部屋で万年床になっていましたし、怖かったのであまり落ち着いて手を合わせることはありませんでした。

 

たとえば母に理不尽に当たられたり、殴られたりしたとき。

両親のけんかが何か月も続くとき(仲のいい時はまれでした)

母が私の部屋を漁って、見つけた手紙や日記の内容に対して「気持ち悪い」と罵倒された時。

いつも神様にお祈りしていましたが、何の効果もありませんでした。

そのうち、私は諦めて、毎晩寝る前に「どうかこのまま死ねますように」と祈るようになりました。

たまに家族でお墓参りに行くことがあって、(必ず父が行こうと言い出すのですが)そうすると北の部屋のお仏壇にもお花が飾られることがありました。

しかし、そのまま放置しておくので、花は茶色く枯れて、水は腐っていました。

私の部屋もぐちゃぐちゃでした。

いつも母に汚いと怒られ、「お前は不潔な女だ、汚いのが好きなところが〇〇子に似ている!」(〇〇子は母が嫌いな親戚の女性の名前)と罵られるので、私も自分がどうしようもない怠け者の汚い女だと長年思っていました。

しかし、今、主人と結婚して、誰に罵られたり怒られたりするわけでもなく、自分のペースで生活したら、部屋はそんなに汚くなることはありません。

 

たまに不安になって、主人に「部屋が汚いんじゃないか、私は掃除はできているか」と尋ねると、「充分きれいだし、生活しているのだから多少の生活感が出るのは当たり前。テレビドラマにでてくるようにはならない。大丈夫。」と言われます。

 

実家に居た時は、年中足がダニの噛み跡だらけ(夏にスカートになるのが恥ずかしいくらい)、アレルギー性結膜炎で目が開けられない(目薬必須)、アレルギー性鼻炎で滝のように鼻水が出続け眠れない、アトピー性皮膚炎で肌はボロボロ、ひどいと膿んでいる状態。

母はそういう私の状態もバカにしました。

「汚くて人前に出せない!病院代や薬代ばかりかかる!」と言われました。

 

別居している義理の祖母が私の症状を心配し、毎日神社にお参りして、良くなるように祈ってくれていたくらい満身創痍でした。(母はこの義理の祖母も、ものすごく頭が悪くて悪魔のような女だと言い続けていました)

 

しかし、一人暮らしを始めてから、それらの症状は全てぱったりと無くなりました。

症状が酷い時は目を開けて黒板を見ることもできず、かゆくて眠れず、死にたいとすら思った症状でしたが、アパートで独り暮らしをしてみると全て治ったのです。

 

しかし、実家に帰って泊まると、必ずまたそれらの症状が現れました。

私は実家に帰る前には、必ず強力な抗アレルギー薬を処方してもらって帰省するようになりました。

往復のお金はかかるし、症状は重くなるし、必ず母には嫌なことや、自分がいかに不幸かを聞かされるので、実家には帰りたくありませんでした。

帰った後は必ず調子を悪くして、1週間は寝込みました。

それでも、私の帰りたくないという意見が通ることは一度も無く、「帰ってくるのが当たり前!常識!」という強い言葉に押されて、しぶしぶ帰りました。

 

アレルギーの薬を飲んでいるので頭はぼーっとしますし、帰っても嫌なことしかないのは分かっていますから、どうしても笑顔で元気に帰ることはできません。

母はその様子を見て「元気がないから職場でも認められないんだ、そんな態度だからお前は成果もあげられないし、なにもかもうまくできないんだ」と言い続けました。

 

根はやさしいが愚かな父は、帰ってきたばかりの私の充血していない目を見て「目がとってもきれいになった、治って良かった」と言いました。

父も年中アレルギーの症状に苦しめられています。

そんな父も、自分本位の人ですから、私が帰ってきても競馬に行き、母と一緒に私の元気が無い態度を責め立てて、説教をしました。

そして3人で一緒に川の字で寝ることを強要するのです。

18を過ぎた娘です。

私は断固断って、一人で物置になっている自分の部屋で眠りました。

カギも無い部屋です。(昔母が、私がカギをかけてしまわないように壊しました)

 

帰途につく時は、本当にほっとしていました。

早く帰りたい。そればかりでした。

 

今、私が生活している部屋は、安いボロアパートですが、ダニに刺されることもなく、アレルギー症状が起こることもありません。

主人もぜんそく持ちなので、ダニには非常に気を遣っていて、床はできるだけフローリングのままにし、じゅうたんではなく、ビニール製のマットを敷いています。

布団は敷布団も掛布団もコインランドリーで丸洗いできる抗ダニのものにしています。

 

 

 

 

 

 

 

「イン・ハー・シューズ」を見て―母の愛を失うこと

イン・ハー・シューズ」という映画が深夜にかかっていたので、録画して見ました。

初見と思って見たのですが、数年前にも1度見たことがある映画だと、途中から思い出しました。

 

見た目は美人だけど、読書障害を抱えていてろくな職歴のない妹(キャメロン・ディアス)と、外見コンプレックスがあり、恋愛はうまくいかない弁護士の姉とが、家族の問題を通して成長していく物語です。

 

勉強は不得手な妹は、祖母の勧めで老人ホームで働くようになり、そこの入所者の元教授に詩の感想を聞かれて、解釈しA+の評価をもらいます。

その時読んだのが、エリザベス・ビショップ(Elizabeth Bishop)のこの詩でした。

 

 ONE ART

   The art of losing isn't hard to master;
   so many things seem filled with the intent
   to be lost that their loss is no disaster.

   Lose something every day. Accept the fluster
   of lost door keys, the hour badly spent.
   The art of losing isn't hard to master.

   Then practice losing farther, losing faster:
   places, and names, and where it was you meant
   to travel. None of these will bring disaster.

   I lost my mother's watch. And look! my last, or
   next-to-last, of three loved houses went.
   The art of losing isn't hard to master.

   I lost two cities, lovely ones. And, vaster,
   some realms I owned, two rivers, a continent.
   I miss them, but it wasn't a disaster.

   --Even losing you (the joking voice, a gesture
   I love) I shan't have lied. It's evident
   the art of losing's not too hard to master
   though it may look like (Write it!) like disaster.

 

 「ある術」
   ものを失う術を習得するのは、難しくない
   大体の物は所詮失くされようという意図でいっぱいで
   失くしたところで大惨事には至らない

   毎日何かを失くすこと。ドアの鍵を失くした動揺や、
   やり過ごした時間を、受け入れること。
   ものを失う術を習得するのは、難しくない

   次はもっと大掛かりに、もっと速く、失くす練習をしよう。
   場所や、名前や、旅に出るつもりだった行き先など。
   どれも大惨事に至ることはない。

   母の時計を失くした。 そして、ほら!好きだった三軒の家の
   最後の一つ、 それとも最後から二つ目だったかが、消えてしまった。
   ものを失う術を習得するのは、難しくない

   二つの素晴らしい街を失くした。そして更に広大な
   いくつかの領土、二つの河、大陸も一つ。
   どれも懐かしいけれど、大惨事に至りはしなかった。

   -- あなたを失うことでさえも (冗談を言う声、
   大好きなあのしぐさ) 嘘は言わない。確かに
   ものを失う術を習得するのは、難しくない
   でもまるで(書いて しまおう!)まるで大惨事に見えるけど。

 

映画の中で、妹はこれを愛を失うことの詩だと解釈します。

そして、仲違いしてしまった姉のことを思い、自分の中に「友達の愛を失ったこと」の悲しみを見出します。

Aプラスの評価をもらった後の、彼女は素晴らしい表情です。

得意気で、自信を取り戻したような顔。あんな顔を生徒にさせてあげられる元教授は、素晴らしい先生だったのでしょう。

 それから彼女は、嫌々ながら始めた老人ホームの仕事の中に、自分の居場所を見つけて行きます。

 

読書障害の彼女の朗読はとてもゆっくりです。だから、詩の朗読には向いています。一語一語が体に染み渡るように響くのです。

私は、彼女の拙い朗読を聞きながら、字幕を読み、そして自分の母のことを思い出しました。

エリザベス・ビショップは、この詩を失恋の詩として書いたのかもしれませんね。

ですが、 映画の中の彼女にとっては「大切な姉の愛を失うこと」、私にとっては「母の愛を失うこと」についての詩でした。読む人によって解釈の変わる詩です。誰にでも覚えのある感情です。

母の愛を失うことも、「disaster(大参事)」のように見えるけれど、大参事に至ることはありません。

私にとっては大きなことで、大変懐かしく、信じていたものでしたが、それを無くすることは別に大げさなことじゃない。

 

映画の二人の姉妹の母親は、精神疾患を患っており、二人が幼い時に自殺しています。父親も後に後妻をもらい、二人も適切な母の愛を受けられないまま成長した姉妹でした。

しかし、その分だけお互いに思い合いながら、時には傷つけ合いもするけれど、心を重ね合って生きていく様子が、印象的に描かれています。

姉の結婚式のシーンでも、素敵な詩が出てきます。

こんな風に思いやれる存在が1人でも居れば、きっとしっかり生きて、歩いて行けるのでしょうね。

間違いもするけれど、しっかり地に足を着けて、生きて行かなければならないと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

カウンセリング探し

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2013年6月7日の記事「初回カウンセリングに行ってきました。」http://pinkmilkvetch.jugem.jp/?day=20130607

の結果ですが・・・

お返事が来て、結局続けて診てはもらえないことになりました。

値段が安いので「診てもらえたら助かるなあ」と思っていたのですが、希死念慮があることと、にもかかわらず、現在定期的に通院したりしていないこともあり、自殺のリスクがあるためセキュリティの問題
また、料金が安い分、担当のカウンセラーが変わることもあり、落ち着いてカウンセリングできる体制ではないとのことから、お断りされてしまいました。

ですが、非常に真摯に対応してくださって、別の機関を料金も含めて紹介してくださいました。

その一つ、ちょっと距離は遠いのですが、値段が比較的安いのでかかってみようと思います。
さっそく予約を取ったのですが、混みあっているようで7月が初回面接ということになりました。

やはり世の中悩みを抱えている人は多いのですね。
町の心療内科の予約もいつもいっぱいです。

遠いので本当に通えるのか不安はありますが、とりあえず初回面接、行ってこようと思います。

リストカットをしなくなった時ー認識しないストレスの怖さ

JUGEMテーマ:ウツ・キレる・情緒不安定・イライラ・不眠・うつ病・人格障害・不眠症・虐待・過食症・拒食症・依存症
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仕事が忙しくなってしまい、間が空いてしまいました。
職場でも人と話すのは苦手で苦しいですが、忙しくしていると余計なことを考えないですむので助かります。

しかし、会議なんかで自分の意見を求められるのは非常に辛いです。
私には何かを「こうしたい」という強い意志がありません。

小さいころからずっと、父母、兄のやりたいこと、したいことを優先して、全て譲って生きてきました。
だからあきらめるのがすごく得意です。

仕事をし始めてびっくりしたこと・・・、というか、不思議に思ったこと、それは、同僚がみんな職場の愚痴を言うことでした。

「上司の○○が嫌だ」「同僚の○○とは仕事がやりづらい」「休日出勤がいやだ」「サービス残業がいやだ」・・・どこの職場でも当たり前にある愚痴だと思います。
そういうことを誰かが言う時、私も同調して「そうですよね」とは相槌を打つのですが、本当のところ、それらのことを嫌だと思ったことが一度も無いのです。

もちろん、あまりにうつ症状が酷くて、日々も出勤もままならないような時は、「職場に行きたくないな、休みたいな」と思います。でもそれは自分が悪いのであって、職場のせいではありません。

もし、上司の○○からの当たりが強かったとすれば、それは自分が至らなかったからですし、同僚の○○との仕事がやりにくかったとすれば、自分のやり方に問題があると考えるわけです。

だから、私は職場の人にどのようにされても、例え無理な仕事の割り振りをされたり、嫌な対応をされたりしたとしても、なんにも嫌だとも思いません。
むしろ「自分のような人間に、そういうことをされるのは当たり前だ」と思ってしまうために、愚痴が出てこないのです。

小さいころからずっと我慢をすることが当たり前でしたので、少々の辛い仕打ちには、いい意味では打たれ強い、しかし、我慢をし続けるので慢性的にうつっぽい、そんな風になってしまったように思います。


先日、ウィキペディアを見ていて、「リストカット」という項目に行きつきました。
リストカットと幼少期の虐待には深い関係がある、とそこには書いてありました。

実は私も、20代の前半~後半の数年間、手首をカミソリやメスなどで切っていました。
死のうと思ってやっていたわけではありません。手首を切って死ぬなんて無理だということくらいは分かっていました。

ただ、時々どうしようもなく心が辛くなって、逃げるためにハルシオン(睡眠薬)や安定剤を飲んで、薬の効き目が出てくる前に、どうしても苦しさに耐えきれずに切るのです。
現実を忘れるため、と言ったらいいのか、逃れるためと言ったらいいのか、わかりませんが・・・
今ではその時のことは夢の中の出来事のようです。

当時は何がなんだかわからないままに、とにかく苦しくてどうしようもなくて、その原因も分からなくて、手首を切っていました。
しかし、切っても夜は明けて、次の日がやってきます。
傷跡を人に見られるわけにいかないので、悟られないように幅の広めの腕時計をしたり、長袖の服を着て隠していました。

リストカットのことを知っているのは今の夫と、当時相談に乗ってもらっていた精神科ナースの友達だけです。

今もその傷跡が手首に残っています。

リストカットが無くなったのは、精神科の閉鎖に入院した後のことです。
今考えるに、あのあたりから「親がおかしい」ということを、だんだん自覚し始めたように思います。

私が入院すると聞いても親は全く何もせず、無視を決め込み、今の主人が(結婚前でしたが)入院の手続きや身の回りのことなど全てやってくれました。

入院のお金ももちろん、自分で払ったわけなのですが、当時うちの親から主人に対して、入院費を立て替えろ(要は借金ですね)という話があったと後から聞いて、あきれ返りました。

私が入院するような事態になってなお、私に対して何をしてくれるわけでもない。
私の仕事がうまく行って、給料がもらえている時にはお金を貸せとたかってくる。

それまで、「自分は頼りにされ、愛されているのだ」と勘違いをしていた私は、「この人たちにとって私は一体なんなんだろう」と考え始めるようになりました。

そして、私が拒食症になったり、胃腸炎になったり、風邪をひいたりするのは、いつもいつも必ず、親が私にかかわってきた時だと気が付くようになりました。

そのことに気付いてから、やめられなかったリストカットは不思議とぱったりしなくなりました。
そして、自ら親と距離を置くようになりました。

このことは当時は気が付いていません。今、ブログを書くにあたってなぜリストカットを辞められたのか思い出してみると、そういえば、という感じです。

とにかく「認識できていないストレス」というのがすごく怖い、非常にまずいことだということは、ブログを読む人には知っておいて欲しいと思います。
何か自傷行為的なものが出ていたら、必ずストレスの原因になるものがあります。

そして、それを本人も認識できておらず、言語化できないために、自分を痛めつける行為で発散しているのではないでしょうか。

上手なカウンセリングにかかっていたりしたら、すぐに原因が分かったのかもしれませんが、当時の私にはカウンセリングにかかる機会もなく、ただ一人でまっくらのトンネルを歩いているような感じでした。
行きつく先は死ぬことしかなく、私の頭の中にはいつでも自分の最期のイメージがありました。
自分が首を吊って死んでいるイメージです。
今でもそのイメージは取れませんが、徐々に無くしていけたらと思っています。















タイ古式マッサージ


だいぶ食欲が戻ってきました。
仕事は相変わらずとても疲れてしまいますが、お昼もおにぎり1個を持参して食べました。

 先日、タイ古式マッサージに行ってきました。
5年ほど前から知り合いのタイ人のお姉さん、いつもいろいろ良くしてくれます。

タイの女性は本当に元気です。苦労も多いみたいですが、素朴で明るくて、情に厚い。
みんな働き者で、家族を大事にします。

先日あまりに体がしんどくて、でも、言葉が通じる日本人とは一緒に居たくない気持ちだったので、仕事後ふっとタイのマッサージに電話しました。
その日は定休日だったのをすっかり忘れて電話したのですが、従業員のタイのお姉さんが出て「休みだけど、あんまり辛かったら、かな子さんだったらやってあげる」とカタコトで言ってくれたので、職場の近くで小さいケーキを買って伺いました。

従業員のタイのお姉さん、40代だとばかり思っていたら、なんと65歳だとのことでびっくり!
言葉が通じにくいと、お互いかえって本当のことや要点しか言い合わないので、なんだかすっきりします。
「ゲンキ、ゲンキ」
と言ってもらえるだけで、「元気になってね、かな子さん」って気持ちが伝わりました。

ヨガをやることを勧められたのですが、ヨガとタイ古式マッサージって似ていますよね。
呼吸法を大事にしますし。
私はドキドキしてきたり、怖いな、と思ったら、10秒呼吸法というのをやっています。
やり方は簡単、時計を見ながら5秒間吸って、5秒間吐く。
これだけですが、ちょっと落ち着きます。
「怖くない、大丈夫大丈夫」という言い聞かせや、やっていますが、これはあんまり効果が無いかな・・・。

あとは、夜はできるだけ間接照明にして、環境音(川のせせらぎなど)や落ち着いたガムラン(バリの楽器)音楽などを聞いたりしています。
ヨガは10分のを数日やってみただけで筋肉痛になりました。
弱すぎです・・・。
ちょっとずつがんばります。