心の弱さと向き合う時
過去にこんなことをされたということを、このブログを見る人のためにもいろいろ書いておきたいのですが、最近思い出すのが辛くて、こうして記事にしようとPCに向かってみても、なかなか書くことができません。
本気で記憶の蓋をあけて、文章に書きとめるのは、苦しい作業ですし、調子を崩しやすいです。
カウンセリングが始まったら、記憶の蓋を開けることについて、何か示唆が得られるかもしれません。
テレビを見ていると、虐待やネグレクトで殺される子どものニュースがよくあります。
殺されるに至るまでには、身体的な暴力や、暴言などが、何日も何日もあったのだと思います。1回目の暴力や放置でたまたま死に至ったわけではないでしょう。
子どもにとって地獄のような日々が長く続いたに違いありません。
だんだん暴力やネグレクトがエスカレートして、殺されてしまったのだと思うのです。
さらに、死ぬまでまでいかなくても、日常的な暴力を受け続けたり、一見身体的な虐待などされていないように見えて、ずっと言葉で嫌がらせを言われていたり、性的虐待を受けていたり、
そんな子どもが世の中には今一体どのくらいいるのでしょうか。
そして、この記事を読んでいる方にも、自分の子ども時代に、思い当たることがある人がいるのではないでしょうか。
周りが見つけてくれ、適切に保護してくれればいいですが、正しい愛情を持って接してくれる、良識ある大人がどれだけいるのか。
そして、たいていの場合、そういう問題を抱えた家は、秘密主義で閉塞的ですから、よっぽど派手に何かやらかさないと、家庭内の虐待が明るみに出ることはまずありません。
私が母から日常的に虐待を受けていたことは、実の父すらも知らないことでした。
そして、子どもにそういうことをする親は、自分自身まともな家庭で育っていないのです。
だから、何が正しいかも分からないし、自分が間違ったことをしているとも分からない。
親自身に悪気が無くても、精神疾患を抱えていたり、知的障害を持っていたり、依存症や嗜癖を持っていたりして、周りに子育てをサポートしてくれる人が誰もいない場合もあります。
こうなってくると、「親になるのも免許制にすべき」などという極論も正論に思えてきます。
厳しくしつける、ほめてのばす、管理してみる、反対に放任する・・・
どんな子育てが正しくて、どんな教育がまちがっているかなんて、はっきり決めることはできないでしょう。
ですが、子どもに苦痛を与え続けるのは明らかに間違っています。
大人が苦しいからと、弱い立場の子どもにツケを払わせるのは絶対に間違っています。
私は今、なんとか向精神薬、安定剤依存から抜け出していますが、自分の弱さにしっかり向き合わなければ、また何かの拍子に暗闇に落ちてしまうと思います。
そういう不安定さを自覚しています。
たとえば、夫が亡くなってしまったりしたら、たぶんまた、依存症に陥るか、自殺未遂をしてしまうと思います。
どこにも居場所がないからです。
そしてこの不安定さは、私の母の不安定さによく似ています。
母もどこにも行き場がなかったのでしょう。
だから、私に取りすがっていたのでしょう。
この負の連鎖は、私で止めなければなりません。
だから、私は子どもを作る気はありません。
何か自分にできることがないか探しながら、人に頼らず、自分の苦しみは自分で癒して、生きて行かなければならないと思っています。