いつか、雨はあがる。

虐待でうつ病、パニック障害を発症。自殺未遂、向精神薬・安定剤依存、入院を経て、現在は非正規で働いています。ようやく前向きになれてきました。

集団躁病的社会、愛の無い世界

あるブログから岩崎純一という人のサイトに行きつき、読んでいて共感するような部分があったので引用しておきます。

青字は岩崎純一のウェブサイトからの引用

 黒字は私の考えです。

 

・鬱を「鬱病」なる病理と見ることに強い疑念を持っている。「人間が悩む」ことを許さない社会は不健全である。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの開発・利用(人体への注入)は、短期的には有効ではあるが、家族愛・恋情・友情の喜びなどこそが、鬱病に対して器質的・根源的に薬物を超えた大きな効果を与えるものであり、また、それら以外に鬱病を「根治」するものは本当はないのではないかと考えている。

 

実際に自分がSSRIを服用してみて思うことは、SSRIの処方はカウンセリング等と一緒に行い、根本的な悩みの原因となっていることを探す、もしくは対処法を考えながら行うべきだということ。

ただ脳内のセロトニンを増やしても、それは薬に頼っているだけにすぎず、薬をやめれば元の状態に戻るのは当たり前のことで、投薬以外に何のケアも行わず、治療を行うのは意味がないことだと思います。

実際、私は非常に希死念慮の強いまま、お金を稼ぐためだけに、働くためだけに薬を飲み続け、結果何の効果も無く、問題を先延ばしにしただけでした。

 

・健常者社会に溶け込めずにいる一定の層が鬱病者なのではない。鬱とは、病理ではなく、人間存在のデフォルト(初期標準設定)の表現型を懐古した者の精神状態である。人間存在の基本はそもそも鬱(メランコリ)であり、我々はレジャーの発明や米国型の市場競争原理によって異常な躁病状態を獲得したのであり、日本人健常者と呼ばれている9割の層の全体に「集団躁病」などの病名が付されなければおかしい。そのことは、ニーチェハイデガー西田幾多郎・九鬼周造・久松真一などの東洋的「生の哲学」からも語られるべきものである。

 

「集団躁病」確かにその通りだと私も思います。

物があふれ、消費をするのが当たり前、快適な生活をするのが当たり前、という洗脳状態に置かれ、資本主義の中で無理やり躁病に駆り立てられている感じがある。

躁になって、結婚式や夏のイベント、パーティ、ファッション、飲み会を楽しもうぜ、そして金を使ってくれという風潮。

また、信田さよ子さんの本『母が重くてたまらない』の中にもありましたが、父・母・子から成る近代家族において、制度的に必要とされ生み出された「母性」への過剰な幻想(これも躁病的な幻想だと思います)が、見えない虐待や一見無邪気で善意な「家庭内いじめ」(母から子への)を引き起こしているようにも思います。

 

集団躁病を良しとする思想に集団感染している人々の中で、価値観を合わせ生活していることに、私は尋常でない息苦しさを感じます。

ネット上で「非リア充」などと自称し、自蔑している人々は、価値観のねつ造に常に敏感で、違和感を感じているのではないかと思う。

 

・バブル崩壊と、共産・社会主義諸国の崩壊、マルキシズムの絶望が起こったあとに20代を迎えた我々の世代の男性にとっては、「恋人・妻・子どもを持つこ と」と「資本主義・市場競争システムに対して適応障害を起こさずに溶け込み、勝利する男性でいること」とは同義にならざるを得ず、これが日本における「男 性のみの自殺の異常な増加」をもたらしたと見ている。
「男性であること」の本質は前者であるのに、その前者を得るためには後者を通過しなければならない不条理がある。また、女性は女性で、最初は目に見えて目 立つ地位と所得層の男性に「幸せの幻想」を抱いて家庭に入るも、マリッジ・ブルー、マタニティ・ブルーを感じて本当の恋の温かさを忘れる。

 

男性は非常に生きにくい時代だろうなと思います。

私は女性なので、いろんなことを甘えて逃げて、生きていくことができます。

もし自分が男だったら、恋人や妻を持つことは絶対にできなかっただろう。

本質を全うせずに、鬱的な状態に自分を抑え、欲求を低くシフトさせることで、自身の生命維持を図っていく方に向かうのは当たり前だと思う。

今、鬱っぽい人が増えているのは、やはり社会のあり方に問題があって、今の状態に適応するには自分を鬱状態に抑えなければやっていけないというだけのことなのでは。

日本は人口も少なく、島国で、多民族国家でもなく、非常に家族的なつながりの中で価値観を共有してきた。

しかし、年間3万人の自殺者、ひきこもりの若者の増加、苦しむ子どもの増加となってくるならば、大々的なパラダイムシフトが必要なのではないか。

精神医学的な病名、心理学的な名称を与えて、苦しむ人を安心させ、薬や傾聴技術を売るという構造にも疑問を感じる。

〇〇の病気だとか、本当はそんなこと、どうでもいいのではないか。

ずっと考えていることですが、答えがでません。