いつか、雨はあがる。

虐待でうつ病、パニック障害を発症。自殺未遂、向精神薬・安定剤依存、入院を経て、現在は非正規で働いています。ようやく前向きになれてきました。

パニック発作におびえて働きながら

大学院卒業後、私は派遣の仕事で働くことになりました。

就職の面接に行った日のことを、今も鮮明に覚えています。

私はやせ細っており、持っていたパンツスーツがぶかぶかで落ちてしまうので、持っていた紐できつく締めました。

何日も何も食べていませんでしたが、何か食べないと頭が回らないかもしれないと思い、コンビニでビタミン入りのゼリーを買いました。

職場まで1人で行くのも辛く、タクシーを呼びました。

体がだるくてだるくてたまらず、タクシーの中ではゼリーをすすりながら、運転手さんの目もはばからず、後部座席で横になりました。

顔色がおそろしく悪かったので、ピンクのチークを塗ってごまかし、面接では気力を振り絞って元気な人のふりをしました。

面接に行くのにこんな調子なのですから、普通に考えて仕事を始められる状況ではありません。

しかし、実家からは一刻も早く働くように、プレッシャーがかけられていました。

それに、派遣ではなく、正規雇用の仕事も探さなければなりません。

奨学金の借金の返済も始まりますし、しばらく休養して病気を治してから働く、などと悠長なことは言っていられませんでした。

私はとにかく焦っていました。

母からはできるだけ早く正規の仕事に就くように言われており、派遣の仕事は正規の仕事に就くまでのつなぎの仕事のつもりでした。

内定をもらうことができ、4月から働き始めることになりましたが、うつっぽさ、死にたい気持ち、パニック発作は全く治っていませんでした。

朝起きて着替えるのも辛く、毎朝、誇張でなく、首を吊るか仕事に行くかの選択でした。

仕事を休むという選択肢は、なぜか全く考えられませんでした。

休んだら死ぬしかない、と思っていました。

精神科でもらった薬を飲みながら、夜には手首を切って睡眠薬で眠る。

朝は毎日、死ぬか、出かけるかを悩み、結局仕事に向かって・・・という日々が繰り返されました。

仕事中も、相変わらずパニック発作に襲われていました。外出もある仕事だったので、そういう時はすぐに外に出て、駐車場の車の中で隠れて寝ていました。

仕事をさぼっているわけなのですが、そうやって隠れてやり過ごさなければ、仕事を首になると思ったのです。

比喩でなく、地獄のような日々でした。

何か悪いことをして、その罰を受けているのかと思ったこともあります。

そんな調子ですから、仕事でも変なミスがたくさんあったことでしょう。

しかし、仕事の同僚や先輩たちは、体調の悪そうな私をかばったり、いろいろ手伝ってくれたり、こまめに世話をやいてくれました。

なぜか不思議とよい人たちに恵まれていて、私はなんとか仕事を続けることができました。

その時に一番お世話になった先輩とは今でも交流がありますが、あの時助けてもらった恩を忘れることはできず、本当に頭があがりません。

結局、その職場では派遣社員として4年間働くことができました。

その間も、精神科には通い続けました。

発作が起きそうになったり、起きてしまった時には、すぐにデパスを飲みました。

デパスは劇的に効く、というわけではありませんでしたが、すぐに効き目が現れて緊張がほぐれるような気がしました。

そのうち、発作が起こらないように、私のお守りのような薬になりました。

酷い発作が起こったときは、恐怖のあまり、処方されている量の2倍、3倍を飲んでしまうこともありました。そのうち、大丈夫な時は薬をためておいて、しんどい時まとめて飲むようになりました。

夜も辛くてたまらない時、死にたくてたまらない時は、やりすごすために睡眠薬と酒を一緒に飲みました。

次の日仕事が休みと分かっている時は、ためておいたハルシオンを1シート飲んだりもしました。

ハルシオンを大量に飲むと、体がふわふわし、そのうち健忘が起こって、次の起きると食べたはずのないカップ麺の空が部屋に転がっていたりしました。

私は当時、いつも死にたい死にたいと思っていたため、自分の身を傷つけるような薬の飲み方をしてしまっていたのですが、こんな薬の飲み方は結局病気の治りを遅くするだけでした。

こんな風に追い詰められてしまっていた本当の原因は、自分が母に精神的依存をしていたことでした。

仕送りをしてくるわけでもなく、体の気遣いもなく、地位の高い仕事に就いてお金を送ることだけ求めてくる実家など、普通に考えれば誰でも切り捨てるでしょう。

しかし、貧乏な実家を、母を、救ってあげなければならない、という訳のわからない義務感が私の中にありました。期待にそえない娘になったから、死んでしまわないといけないんだと、いつも自分を責めていました。

家族の問題に根本的原因があることに気が付かなければ、病気は本当の意味で良くなるはずありませんでした。

私は、世の中の難治性のうつ病の人の何割かは、こういった根本的原因に気が付かず、(もしくは自分の中で見ないように蓋をしていて)ただ投薬治療だけでなんとかしようとしている人がいるのではないかと思っています。

根本的原因が何かはっきり分かっていても、それが取り除ける類のものでないこともあるかもしれません。

私の場合、ストレッサーは実家の家族で、しかも私はすでに家を出て、遠く県外に住んでいましたので、気が付いてから徐々に距離をおくことは意識すればできました。(精神的には非常にきつく、つらいことでしたが)

こういったいわゆる「毒親」とよばれるような家族からの虐待や支配から、精神的に逃れるの方法については、また稿を改めて書こうと思います。