初めての自殺未遂
大学院在学中、初めてのパニック症状のようなものを経験した後、私は毎日不安で遅くまで寝付けず、食事も取ることができなくなりました。
就職への焦りもありますが、説明会や面接に臨んでも、不安な気持ちが空回りするばかりで、自分が地に足をつけて立っているような気がしませんでした。
パニック発作のようなものも、1日に1度か、2日に1度は起こるようになって、一人暮らしだった私は家の中で一人耐えてうずくまっていました。
しかし、その時は病院にもかかっておらず、何かおかしいとは感じていましたが、それが発作であるなどとは思ってもいませんでした。
大学院の授業に出ることもままならなくなり、他人とかかわることを避けるようになって、一人、訳の分からない狂乱的な状態になってしまうこともありました。
ある日、私はまた不安の嵐のようなものに襲われ、我慢できずに、実家の母に電話をかけました。
「お母さん!助けて!」
何も知らない母はびっくりして、どうしたのか私に聞きました。
混乱して、頭のおかしくなっていた私は
「お母さん、私はエリートのような仕事に就職することができないかもしれない。一般職のような仕事もでもいいだろうか?お母さんに棄てられる!お母さん、わたしを棄てないで・・・!」
今思えば、このセリフはおかしなことだらけです。自分の就く仕事のことで、なぜ母におうかがいをたてないといけないのか。そして、20歳を超えて成人した大人が、「母に棄てられる」とは。
しかし、このセリフこそが、私の精神不安定の根本的原因を明確に示唆するものでした。
一方的に母の言いなりになり、母に棄てられまいと応えてきた自分。
自分と母とのいびつな関係性に、この時すぐに気が付いて、何らかの対処をすることができていたら・・・私はこんなに長い間心身の不調に悩まされることもなかったかもしれません。
しかし、母と私の関係は24年かけて培われてきた、絶対服従の関係でした。幼いころから、時に暴力をともなって体に刻み込まれてきた関係でした。
言わば、私はマインドコントロールのような状態だったのです。
だから、この時の私にとって、「お母さん、棄てないで!」は心の底からの叫びで、母に救いを求める最後の言葉でした。
この私の言葉に対して、母はどうしたか・・・。
母は、私の言葉を聞くや、金切り声のような叫び声をあげて、泣きわめきながら言いました。
「一般職に就くのだったら何のために学校へ行ったのか!!お前は馬鹿か!!どうするつもりか!いい加減にしろよ!!」
ショックと恐怖でしっかり受話器を持つこともできず、はっきりとは覚えていませんが、とにかく、そんなような内容でした。ありとあらゆる罵詈雑言でののしられました。
見栄っ張りの母にとって、娘である私がいい大学へ行ったということは、母自身のアイデンティティだったのかもしれません。
母からののしられた私には、もう、すがれるものは何もありませんでした。
母の望み通り、いい大学に行き、いい大学院にも行った。
でも、望むような就職ができなかった。
借金だらけで返すめどは無く、恐怖で体は動かず、人に会うこともできない。
何を見ても興味がわかず、胸がふさがったような感じで吐き気がし、1か月で体重が10キロほど減ってしまいました。
それまで漠然としていた「死にたい」という思いがはっきりしてきて、包丁を持ちましたが、怖くて死ぬことができませんでした。
そこで、服薬自殺を考え、薬局をまわってで大量の酔い止め薬と吐き止め薬、そして日本酒を買って、すべて飲みました。
1日寝込みましたが、ただ具合が悪くなっただけで結局死ぬことはできませんでした。
学校へ行くお金を出してくれたならいいじゃないか、贅沢な悩みだと思う人がいるかもしれません。実際は大学、大学院の学費は、すべて私の借金となる奨学金から出されました。
そもそもうちには子どもを大学に行かせるお金などなかったのです。普通であれば、中卒か高卒で働かなければならない所得の家でした。しかし、母は、私をいい学校に入れたい一心で、お金はどうにかするから心配する必要はないと言い続けました。結果、すべてが私名義の借金でした。
授業料は貧乏な家庭だと、授業料免除という制度があって、全額免除してもらうことができます。
私はその制度を使って、大学四年間と大学院二年間通いました。
奨学金は、アパートの家賃や生活費などに使いました。
さらに、またこれも別の日記で書きたいと思いますが、私が借りた奨学金は、家族のために仕送りと称して送らされ、結局私は卒業した時に、1,000万近い奨学金の借金を背負っていました。
今現在も、奨学金の返済を続けています。