いつか、雨はあがる。

虐待でうつ病、パニック障害を発症。自殺未遂、向精神薬・安定剤依存、入院を経て、現在は非正規で働いています。ようやく前向きになれてきました。

子どもの頃のさみしさ

さいころ、父が仕事から帰ってくるのが楽しみでした。

両親ともに夕方からの仕事で、帰ってくるのは夜中。

学校から帰ると誰もおらず、本を読んだりテレビを見たり、絵を描いたりしていました。

テレビを見たり絵を描いたりしていると母は怒ります。

帰ってきて殴られるので怖かった。

でも父は私を殴ったりはしませんでした。

 

帰るくらいの時間になるといつも車の音に耳をすませていました。

父かな、母かな。

ドキドキしたのを思い出します。

あの時はさみしいなんて思いもしなかったけれど、自分は家族がいなくて寂しかったんだなと今になって思います。

そしてずーっとさみしいまんま。

夫と暮らして埋まっているけれど、やっぱり心にはいつまでも穴が開いています。

人間というのはだれしもそうなのかもしれません。

 

「今日こんなことがあって・・・」

というのを、いいことだけでなく悪かったことも、困ったことも、悩んだことも話せたらよかったでしょうが、母にはいいことだけしか話せませんでした。

だけど、そんな風にすべてを話せる恵まれた子どもなんて、あんまりいないかもしれません。

みんな多かれ少なかれ、いろいろなさみしさを抱えているのでしょう。

帰省し、父に会いました②

続きです。

 

父から家の状況を聞き、相変わらず母とは冷め切っていること、

兄も相変わらず自分勝手にやっていることを知りました。

でも父が選んだ家族。

一生共に生きていくと決めた家族なのだから私には関係はありません。

 

父は、母が私に今まで何をしてきたのか、何をされたかと、聞いてくれました。

私が母にかたくなに会わないのは知っていますので。

でも私もやっとほとんど思い出さなくなってきて、それでも調子を崩すと夢に出るくらい怖いことなので、記憶を掘るのも嫌で

「母に聞いて」

とだけ言いました。

父は母にも聞いたようですが、母は何も言わなかったそうです。

ことあるごとに父は母に「かなこに何をした?」ということを聞いているようなので、だんだん年を取りエネルギーが弱ってきたら、自分のしたことも恐ろしくなってくるのではないだろうか。

 

もう母のことはどうでもいいし、今はなんとも思っていません。

一時は地獄に落ちてくれ、苦しみぬいて死んでくれと

心の底から思ったこともありますが、今ブログを書きながら、何の感情もわいてきません。

愛情とか許すとかもなく、ただ心はとても凪のようで無関心。

自分としてはすごく良い状況だと思います。

 

その日7時くらいに父に会え、食事をして話をし、9時くらいには別れました。

父の前で涙が出るかなと思ったけれどそれもなく、「ビジネスホテルの大浴場が11時までだったから入らないと」と考えていました。

翌日空港まで見送りに行こうかと言われましたが断りました。

昔の父だったら断ってもストーカーのように追いかけてきていましたが、頭の病気で倒れてからエネルギーもなくなったのか素直に折れました。

異常な執着というのも若くてパワーがあるからこそ為せるのでしょう。

 

ホテルに戻り大浴場に急いで行きました。

誰もおらず貸し切り状態を満喫し、部屋に戻ってパジャマに着替え、いよいよ眠るとなってからものすごく悲しくなって泣きました。

誰もいないのを幸いと声をあげて泣きました。

 

子どもの頃よく遊んでくれた父。

家族の大事な用事の時にいつもいなくなり、ギャンブルに行き、負けて不機嫌だった父。

私への執着はなくなっても、ギャンブルへの執着はきっと死ぬまで残ったままなのだろうと思いました。

人間の脳の不思議さと悲しさを思いました。

 

飛行機に乗り、結局自宅に帰って来られたのは深夜でした。

夫と義父の顔を見てほっとしました。

やっぱりこの現実が夢なのではないだろうかと、今でも思います。

帰省し、父に会いました①

同郷の友人から強く誘ってもらったこともあり、7年ぶりになるでしょうか。

故郷に帰ってきました。

もちろん母のいる実家に帰ることはできない。

誘われた時、最近あまり思い出さなくなった実家の間取りを一瞬思い出して気分が悪くなりました。

帰れない事情を知ってくれている友人は家に泊めてくれるとのこと。

妊娠中で帰省中の友人。

「かなちゃんに会いたい」、「久々に故郷でゆっくりしよう」と言ってくれ、最初は理由も話し断っていましたが、ご両親も事情をかんがみて2日でも3日でも泊めてくれるという話。

 

あまりに言ってくれるので「考えておくね」と返事をしましたが、これで帰省は最後になるかもしれず、それなら父が死ぬ前に父の顔は見ておきたいとも思いました。

この機会に2日だけ帰ろうと決めて、友人に伝えると「待ってるね!」という返事。

他人の家に泊まるのは少し苦手で、迷惑ではないかとも思ったので1日はホテルを予約することにしました。

 

お世話になった友達の家は、学生時代からたまにお邪魔することがありました。

「私の理想の家」と言ってもいいかもしれない。

話を聞くところによると、家族の中でいろいろと問題もあるようです。

でも、頭のいいしっかりとしたお父さんに優しいお母さん。きちんとお世話されたペットがいて、家も車もきれいです。

実家と比べてしまいどうしても少し辛い気持ちになりましたが、とてもよくしていただき嬉しく思いました。

 

2日目はホテルに泊まり、父に会う予定でした。

父には友人宅に泊まると言ってあります。

母はちょうど兄のところに行き不在とのことでほっと安心しました。

約束は17時。

しばらく会っていない父。緊張します。

 

が、直前になって「もう少し遅くできないか」と連絡がありました。

後ろではギャンブル場の音が聞こえています。

あーあ、やっぱり。と思いました。

 

7年ぶりに飛行機に乗って会いに来た娘を待たせても、ギャンブルをやりたい父です。

負けていて取り返したかったのでしょうか。

その後も「6時にしてくれ」、「やっぱり7時にしてくれ」、と連絡が来ました。

「悪いけど、9時には帰らないといけないので」と父に言うと、「じゃあ7時で」となりました。

最初、ステーキレストランを指定されていましたが「やっぱり某牛丼チェーン店に変えてくれ」と言われました。

 

待ち合わせて久々に会った父はボロボロの軽自動車で現れました。

前に脳出血で倒れたため、体の半分はうまく自由がきかない様子。

そのせいか、ネクタイはしていますが食べこぼしのシミがあります。

 

400円くらいのメニューを「私がおごるよ」と言いましたが、「いやいや」と笑って、父は自分の分の食券を買いました。私も自分の分を買いました。

 

実家の様子を聞くと、水が出なくなったと言います。

どうやって生活しているのか聞いたら、自営業の事務所の水をタンクに入れて毎日持って帰っているとのこと。お風呂の水は1週間変えないそう。

工事に30万かかり、そのお金がないといいます。

ギャンブルをやめればいいのではと思うけれど、こんなやりとりは今までうんざりするほどやってきており、不毛であることは分かっています。

 

つづく。

録音することの大切さ

祖母の死のことについて、思うことの記事を書いたのですが、たくさん書いたのに消えてしまいました。

言語化したことで、少しすっきりした気はしますが…。

保存の仕方を失敗してしまったようです。

 

今はあまり報道されなくなりましたが、ちょっと前、テレビで豊田真由子議員のパワハラについてニュースが流れていました。

テレビで録音のテープがかかるのですが、怒り方に母親に似ているところがあり、とても怖くなりました。

母はあれ以上にもっと金切り声で、言葉にならないうめき声や悲鳴を出しながら殴ってくるので、はっきりと言葉が聞き取れる豊田議員とはまた違うのですが、テンションは近いものがあります。

豊田議員は、あれを自分の部下にだけやっていたのでしょうか?

ご主人や子どもさんにはやっていなかったのでしょうか?

外面が全然違うところも母と同じです。

 

自分の母親以外にもああいうタイプの人がいるのだと知り、ほっとするような気もするし、ますます世の中が恐ろしくて、誰も信じられないような気がします。

豊田真由子議員のような人格はどのようにして生まれるのでしょうね?

 

もしかしたら秘書の方にも重大なミスなどがあったのかもしれませんが、だとしても普通あんな言葉づかいで、他人に対して言うでしょうか?

また、学歴もあって頭のいい人で、要領も良さそうなのに、録音されるリスクを少しも考えなかったのでしょうか?

怒りのコントロールができないのでしょうか?

 

しかし、あのような録音データがあったから、豊田議員の本当の姿を世の中に分かってもらえたわけですね。

私は10年以上も母親に暴力をふるわれておきながら、その間、どうして一度も録音するということに思い至らなかったのだろうと悔しく思います。

洗脳状態にあったせいもありますが、無念でなりません。

それで母をどうこうしようということではなく、そういう事実があったということを、誰か一人でも知ってもらえたら…あの苦しい時期に何か違っていたのかもしれないし、あんなに追い詰められるほど我慢しなくても良かったのかもしれない。

 

何もかも自分がバカで、勇気がなかったせいですが。

 

今となっては、もう絶縁している母なのでどうでもいいことですが、何かもっと対策は無かったのかと考えてしまいます。

 

ただ、父は母に録音機を仕掛けていました。

浮気の証拠を集めるためだったのですが、父が母の異常さをはっきり自覚したのは、父が録音機を仕掛けて、母の独り言を聞いてからでした。

母は独り言でも「クソが!」とか「死ね!」とか、毎日言っているのです。

 

父からの電話を切った後に、「死ね!死ね!」などと言っているのを、父が録音で知り、母に対して距離をおくようになりました。

母の罵詈雑言は、私は毎日聞いていましたけどね。

 

「お母さんがおかしい」

という私の訴えを、「確かにそうだ、あの人は何か変だ」と父が初めて同意して聞いてくれたのは、父が録音機のデータを聞いてからの事です。

「今更か」と思いました。

「前からあの人はああだよ。毎日毎日言っているよ。私が小さいころから」と父には言いました。

私は母の「死ね!」と聞きながら育ちました。

 

DV被害、パワハラアカハラ被害を受けている方、

録音は本当に大事です。

久しぶりの更新です(1年ぶり)

なんとか仕事に休まず行き、朝起きて夜寝るという、普通の生活ができるように心がけて毎日を送っています。

軽いウォーキングや呼吸法ですが、運動もするようになり、おかげさまで元気にしています。

最後のブログの更新からなんと1年も経過してしまいました。

あっという間の1年でした。

 

このブログは、自分が一番つらかった時、気持ちの整理をするために開設したブログでした。

自分の身に起こっていた、なんだかよく分からない状況を自分の言葉で語るということは、かなり意味のあることだったと、振り返って改めて思います。

私の経験したことは、誰が見ていたことでもなく、密室の中で巧妙に隠され、陰湿に行われていたことでした。

私が語らなければ、誰もその事実を知ることはないし、まして苦しみを理解してくれる人が現れることもない。

自分自身ですらも、その全容を理解することはできず、ただ「生きるというのはなんと苦しいことなのか」と思っていました。

普通に周りの人が生きているということが、自分にとっては不思議でした。

自分だけ耐性がないのだとすら思っていました。

 

語ることによって自分の経験を俯瞰して見られるようになりました。

思い出すと苦しくて、胃がしぼられるようになっていたのが、時が経って、フィルターを介したようにぼんやりとした記憶になりました。

刺激的すぎる記憶は、うまいこと思い出さないようになりました。

 

そして、諦め。

しょうがなかった、どうしようもなかった。

そして、過ぎ去っている。過去の事である。

今はそんな冷静な気持ちです。

 

数か月前、夫方の親戚が亡くなりました。

まだお若い方です。

ふと、父のことが気になりました。

こちらの都合は問わず、ストーカーのようにしつこいので着信拒否していますが、着信履歴は見え、月に1度か2度、電話してきていることが分かっていたので、半年以上ぶりに電話をかけました。

 

そうしたら、ギャンブルの途中でした。

今いいところなので、かけ直すと。

 

笑ってしまいますね。

三つ子の魂百まで。

病気は治らないんだなあ、と思いました。

 

あんなに執着し、一時は一日に何十件も電話をかけていた娘から、久々に電話があったのに切ってしまう。

父の脳みそは、ギャンブルの快楽が忘れられなくなっているのでしょう。

薬物依存、アルコール依存と同じです。

そしてそういう快楽が、家族との時間を過ごすことよりも何よりも勝ってしまうんです。

 

父だけが悪いのではない。

若かった父にギャンブルの遊びを教えた祖父の悲しい愚かさ

父の何もおもしろいことの無い環境と、人生と

日々の生活のストレスと

 

いろんなことを何もかもスーッと忘れさせてくれるのがギャンブルなのでしょう。

そういう逃避はきっとどんな人にも起こりうることです。

依存になりやすい脳というのはあるらしく、遺伝要因もあるそうです。

 

今さら父に大切に扱ってほしいなどとは思いもしませんが、改めてしばらく見なかった現実を突きつけられた気がしました。

それから「ああ、またか」という、幼少期から繰り返し繰り返し、がっかりさせられ、期待させられては裏切られた、あの感情を久々に思い出しました。

 

人というのは約束を守らないものだ

人の人格はガラッと変わるのもので、仏のような人が鬼のようになる

ということを、私は父から学びました。

 

 

マンガで分かる心療内科 依存症編(ネット・スマホ・ゲーム・ギャンブル・ポルノ) (ヤングキングコミックス)

 

ギャンブル依存国家・日本 パチンコからはじまる精神疾患 (光文社新書)

メールアカウント停止について

長い間ブログを休止しております。

仕事はなんとか行っています。

両親とはあれからも状況は変わらず、一切連絡を取っていません。

おかげで穏やかな生活ができています。

 

普段は人と話したり、会ったりすることはあまりないのですが、自分にとって人と関わらないことは安心できること

とりあえず他人と関わらないことで心の平穏を保てています。

 

ブログ用のメールについてなのですが、ながらく使っていなかったため、アカウントが消えてしまいました。

メールフォームはすでに削除してありますが、メールをいただいてもお返事ができない状況です。申し訳ありません。

 

連休中もどこにも行かず、家でずっと読書をしていました。

家は鍵がしっかりかかるので、少し安心です。

でも運動不足になってしまいそうですね。

 

時々思い出して怖い時がありますが、1杯お酒を飲みます。

とても弱いので1杯も飲めるかどうかという感じ

アルコール中毒にはならなくていいかな。

そのまま寝てしまえば、怖くありません。

メール募集ストップのお知らせと新しい世界に向かって

 以前、以下の記事をUPしていましたが、状況が変わってきました。

状況の変化についてはで書きます。

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メールお待ちしています。

(仕事多忙のためと、ありがたいことにメールを送って下さる方が多くなってしまったため、現在メールフォームからメールいただいてもお返事がすぐにはできない状況になっています。なので一度メール募集をストップさせていただきます。申し訳ありません。もし、お返事が非常におそくなっても構わなければ、メールフォームからご送信下さい。)

 

現在、自殺未遂や自傷行為はしておらず、仕事にも通えています。

しかし、うつっぽさや希死念慮からは完全に脱却できていない状況で、調子のいい時と悪い時があり、病院のカウンセリングにかかりながら治療中です(現在カウンセリングは通っていません。理由は以前通っていたところが移転してしまい、大変遠くなって通えなくなったためです。)

 

このブログを始めてから、似たような辛い境遇で育った方との交流ができ、励みになっています。

同じような境遇でお悩みの方や、また、健全な家庭で育ったけれどもこのようにすれば良いという意見、アドバイスをお持ちの方など、いろんな方のご意見を伺えれば嬉しいです。(ご意見、アドバイスをいただけたらもちろん嬉しいですが、今、お礼の返信もすぐにはできない状況となっています。)

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今までメールをくださり私がGmailから返信して交流のある方は、返信が滞りがちになってしまい大変申し訳ありません。

お返事が遅くても良ければいつでもメールください。

 

このブログを通じて、似た経験をされた方とメールでお話することができ、こんな経験をしたのは自分だけではないんだ、とりわけ自分が不幸だったわけでは無いんだと思うようになりました。

 

顔見知りの人間にこういう生い立ちに関する話は言いにくく、また改まって話をする機会もありません。

言ったとしてもそういう環境で育った自分の人間性を疑われるのではないかという恐怖もあり、打ち明けているのはごくわずかです。

 

こちらのブログで打ち明けたことで、過酷な子ども時代を過ごした方々とコメントやメールのやりとりをすることができ、視野が広がった気がしています。

 

今、仕事で新しい資格を取ろうかなと考えています。

相変わらず人間関係はうまくやれませんが、多くの人のいる職場に行くのが辛いので、独立できないかということも考えています。

大勢の中に行くのはとても怖いのですが、お客さんと1対1ならなんとかやれる気がしています。

 

こんな風に前向きに未来のことを考えられたのは産まれて初めての気がしています。

 

進学校を受験した時、大学に進学した時、最初の就職をした時、引っ越しをした時、結婚した時・・・

今考えると、私の人生の節目節目は全て母が決めてきました。

 

だから自分で何か大きな決断をしてやってみようと考えるのは実は初めてのことです。

初めてのことをする時、こんな風に心がワクワクするんだと生まれて初めて気が付きました。

今までは学校に入学するのも、結婚式も、なにもかもが義務でした。

 

でも、もう義務は果たさなくていい。

自分の人生を自分のものにします。

もう誰の言いなりにもならない。

強い心でやっていきます。

 

まだまだ人は怖いし、たくさん逃げもするとは思いますが、これからは能動的に生きて行くんだという決意が心にあります。

 

今までグレーだった世界に色が付いたみたいです。

自分の好きなことをやってもよいなんて、そんな当たり前のことが30過ぎるまで分からなかった。

 

私は生まれ変わりたいと思っています。