いつか、雨はあがる。

虐待でうつ病、パニック障害を発症。自殺未遂、向精神薬・安定剤依存、入院を経て、現在は非正規で働いています。ようやく前向きになれてきました。

自分の母は何かがおかしい?虐待と気が付けない中での生きづらさ

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JUGEMテーマ:ウツ・キレる・情緒不安定・イライラ・不眠・うつ病・人格障害・不眠症・虐待・過食症・拒食症・依存症 

こうしてこのブログを初めてから、苦しかった昔のことを毎日1度は思い出してPCに向かっているわけですが、思い出すのは苦しい作業ですね。

連日、思い出して書いたので、今日は少し気分が落ち込んでいます。

それでもやっぱり書いておきたいと思うのは、一体今までの自分の苦しみとはなんだったのか、その化け物のようなものの正体をつかみたい、と思うからです。

初めてのパニック発作を経験してから、私は混沌とした恐怖の世界に、右も左も分からず放り出されて、為すすべなく多くの苦しい出来事を経験しました。

それまで多くはないけれど友達も居たし、いろいろな本も読んでいたほうだと思います。

学校では、成績優秀というわけではありませんでしたが、留年もせず、真面目に授業を受けていたと思います。

それでも、私は一人つまづいて、長い時間を無駄に過ごしました。

それまで仲が良かった友達とも会えなくなり、疎遠になりました。

一体何が原因でこんな風になっているのか、自分にはちっともわかりませんでした。

同級生が順調に大学生活を送り、就職し、恋愛をし、キャリアアップをしていく間、私は向精神薬や安定剤の依存となって、毎日家で寝ていました。

体が鉛のように重くて何一つやる気が起きず、仕事以外で起き上がることができないので、家事もできませんでした。

ゴミ出しすらできず、夏場には蛆が湧いていたこともありました。事務的な手続きも億劫でできないので、税金や家賃、電気料金や携帯料金も滞納し、奨学金の返済も滞って、債権会社にまわされました。

月18万円ほどの給料をもらっていて、家賃は3万円でしたから、払えないわけはなかったのですが、とにかく今日こそは死のうというつもりで生きていましたので、明日のことなどどうでも良かったのです。

そんな風になっても、実家からの助けは何一つなく、私は一人で生活していました。

24歳から28歳の私は、「今日こそ死のう」と毎日思いながら、死にきれず、仕方なしにただそこに存在しているだけでした。

一体、あの無為は時間はなんだったのでしょうか。

私が初めて「死にたい」という思いをはっきりと意識したのは、小学校低学年の時のことでしたが、その時から漠然と抱えてきた希死念慮が、24の時、就職を機に急に具体性を帯びて、眼前にやってきた感じでした。

私は最近までずっと、自分が母から虐待を受けていたとは思っていませんでした。

それがとても怖いことなのですが、母は私への愛情ゆえに、ああいう行動をとっていたのだと、ずっと信じていたのです。

小さいころから、母は私が外出する時の洋服を必ずこれとこれと指定しました。出かけるとき、私が自分で服を着ると、そんな汚い服はやめろ!と言って上から下まで着替えさせられるのです。

まるで私は母の言うがまま、なすがままの着せ替え人形でした。

そして母は、私の容姿について、毎日毎日罵倒し続けました。それは私が物心ついてから大人になってもずっと続きました。ここ1年以上は母とあっていませんが、今でも会うと必ず言われます。

汚いものを見るかのような表情を作って言うのです。

「お前は歯並びが悪い」、「鼻が低い」、「頭の毛が薄い」、「体毛が濃い」、「背が低い」、「顎が出ている」、「足が短い」、「胸が小さい」、「○○にしゃべり方がそっくりだ」(○○は母が日ごろから憎んで嫌っている女性)、「いつも口が開いたままで頭が悪いように見える」、「口臭がする」、「爪の形が変」、「肌が汚い」などなど。

こういった罵倒が毎日毎日、永遠に続きました。

おかげで私は何もかもをひどく気にするようになり、友達とかかわるのにも、自分が相手に不快感を与えているのではと思わずには居られず、外で尋常でなく神経を遣うようになりました。

そして異常に歯並びや口臭を気にするあまり、人前で口を開けて笑うことができなくなりました。

今、新しい家族と暮らすようになり「そんなに気にするほど変ではないよ」と何度も言ってもらって、その癖はだいぶ治りましたが、学生の頃の私の写真は、すべてゆがんだ不自然な顔になっています。

そして、「お前は私がいないと何一つきちんとやり遂げることができない」とも言い続けられ、母は私がやることすべてに手出しをしました。

思春期に友達とやりとりをしていた交換日記や、手紙は、机やカバンをあさってチェックされ、「こんな気持ち悪いことを書くな」と言われて捨てられたり、友達から借りた漫画や小説、没収されて庭で焼かれ、私は友達になんと言って謝っていいか、ほんとうに困ることばかりでした。

自分の大切にしていたものなども、母が気に入らないと取り上げられて棄てられるので、一生懸命隠しましたが、私の部屋は鍵を取り外され、母が私が学校に行っている間に隅から隅まで漁るので、私のプライバシーはどこにもありませんでした。

口ごたえをしようものなら問答無用で殴られました。外に締め出されたことも何回もあります。

このようなことは、私は学生時代は誰にも言うことができませんでした。というか、つらいし、しんどい、嫌だ、死んでしまいたいとは毎日思っていたのですが、そんな風に思う自分が悪いのであって、こういう母の行動は普通の範疇のことなのだと思っていたのです。

しかし、自分と友達の家庭の違いを決定的に感じたことが1度ありました。

高1の時、同じクラスに、優等生で物静かなKという女の子が居ました。

Kのお父さんは優秀な大学を出て、研究職に就いていて、彼女自身も非常に頭が良くて、お父さんと同じ進路を希望していました。

Kがある日、このように話してくれました。

「父に一度だけ、殴られたことがあるんだ。平手で。それが殴られた最初で最後。でも、その時の自分は本当に悪いことをしてたから、殴られても仕方なかったと思う。」

その話を聞いたとき、私はびっくりすると同時に、うらやましいと思いました。

「本当に悪いことをしたときだけ殴る」・・・なんて理性的なお父さんなんだろう。

私は、理由が分からないままに毎日殴られている。

母の機嫌をうかがって、毎日びくびくして暮らしている。

Kと私の境遇はこんなに違うんだ。だから私はKのように、優しい、すてきな女の子にはなれないんだ。

「Kのことを、心から考えてくれているお父さんなんだね。」

Kの持つ知的で理性的な雰囲気、きちんとした家庭の雰囲気をまぶしく思いながら、私はその時、Kにそう言いました。

自分の母のことを他人に打ち明け、助けを求めることができたのは、パニックを発症してからのこと。

25歳になってからのことでした。