はじめましての方はこちらから(私の生い立ち)
はじめまして。かな子といいます。
思いつくままに書きなぐったブログですが、ある程度記事が書き溜まりました。
初めて来た方ができるだけ読みやすいよう、生い立ちと関連記事をまとめてみました。読む順番のガイドにしていただければと思います。
はじめましての記事はこちら
私の生い立ち
母から逃れるために物置に隠れているのが物心ついた最初の記憶。
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<小学生時代>
母からの身体的暴力、暴言を受けながら、母の期待に応えるためにスパルタ塾に通い、私立中学を受験。
ストレスで両手の爪すべてを噛んで、爪が無くなる。
アレルギー症状やアトピー症状が悪化。
目は角膜の損傷でまぶしくてほとんど見えず、皮膚はかきむしって膿みボロボロ、死にたいほどの苦しみ。
母のきつい仕打ち、暴言に苦しみ、自殺して母を後悔させたいと思うようになったのが小学校5年生の時でした。
それか今まで、希死念慮が消えることはありません。
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<中学時代>
母の期待に応え、私立の進学校に進学。
しかし成績は底辺に。遅刻もある。
学校ではお調子者を演じるが、誰の言うことも聞くので、いじめを受けることも。(上履きを遠くに投げられたり、筆箱をごみ箱に捨てられるなど)
家では父母が喧嘩して罵り合い、父が母に暴力をふるう。
働く母の代わりに兄弟の食事を作ったり、世話をする。
母の私への干渉はひどく、机の引き出しはすべて漁られ、日記、手紙は隠していても全て読まれる。ゴミ箱もあさられ、レシートも見られて、叱られる。
書いてある文章や、絵などについて、「気持ちわるい女!こんなことを考えて!書いて!」と破かれながら罵られ、叩かれ、書いたものを焼かれる。
リモコンやヘアブラシを投げられたり、頭や背中をたたかれたり、日常的な暴力は続く。
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<高校時代>
目立たないようにしていた方が得だと思いだし、自分からは他人と積極的にかかわらないようになる。
とにかくできるだけ目立たないように、この世に居ないように生活。
毎日寝る前にこのまま死ねたらいいのにと思う。
学校の授業料が引き落とされていないことがよくあり、呼び出される。
両親は兄のやっている部活にのめりこみ、家の中は兄の部活の成績の話題ばかりになる。
父と母は相変わらず暴力沙汰のけんかをし、何か月も険悪なことも。
私への暴力も母の機嫌しだいで、私が家を出るまで続きました。
幼少期~の虐待や家庭状況についての記事
(それほど恐ろしい表現はありませんが、虐待を受けた(かもしれない)方は、もしかしたら思い出して具合が悪くなるかもしれません。注意してください。)
自分の母は何かがおかしい?虐待と気が付けない中での生きづらさ - いつか、雨はあがる。
DVで腕を折られた母―保険証が無いのが当たり前だった。 - いつか、雨はあがる。
私の家では朝ご飯を食べたことが無かった。 - いつか、雨はあがる。
母のサンドバックで、着せ替え人形だった私 - いつか、雨はあがる。
私が一番怖い母は、本当は誰よりも弱い人間だった - いつか、雨はあがる。
アレルギー症状に悩まされた幼少期~思春期 - いつか、雨はあがる。
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<大学時代>
母の強い希望で、奨学金を借りて地方の国立大学に進学。
一人暮らしをはじめる。
しかし、仕送りは家賃のみ。お金にびくびくしながら暮らす日々。
いくつかアルバイトをし、自炊。授業料免除の申請をして、なんとか卒業。
彼氏ができ、初めて自分のすべてを安心して預け、甘えられるようになる。
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<大学院時代>
母の希望で大学院に進学。
「お金はどうとでもなるから、人に自慢できる仕事(正規の研究職)に就け」と言われ、研究職を目指すが、実力の無さ、正規職のポストの少なさに挫折。
修士論文を出したあと、当時付き合っていた彼との結婚を考え始め、遠距離だった彼の住む県での就職活動をする。
しかし、彼が浮気をし、別れを切り出される。
親以上に信じ切っていた人に裏切られ、精神崩壊。
長年の希死念慮も手伝って、自殺未遂(大量服薬、首吊)、自傷行為(リストカット)を繰り返すようになる。
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<社会人になってから>
このあたりのいきさつはこちら
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とてもじゃないがフルタイムの職に就くことはできないので、非常勤職に就きました。
自分が虐待を受けたとは思っていなかったが、今までの生い立ちや、母のことについて、精神科ナースの友人に打ち明けたところ「それはおかしい」と言われたことがきっかけで、自分が育った環境は異常だったのではないかと思い始めました。
そのいきさつについてはこちら
しかし、分かったところで症状はよくならず、死にたい気持ちを抱えたまま、母とも相変わらず関わり続ける。
母からは「正規職に就け、もっと人に自慢できる職種に就け」、父からは「少しでもいいから仕送りしろ」と言われ続け、自分の奨学金の借金も多額なことから、病気を押して正規職に就きますが、やはり上手くいかず、1年で失職。
閉鎖病棟に入院するも、父も母も傍観しているだけで見舞いにも来ず、仮病だという考えで、体調を心配しもしなかったことから、親と決別する決意ができてきます。
そのいきさつについてはこちら
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その後、アルバイトや水商売の仕事を経て復職。
非常勤職ながら、生活をたてなおし、ずっと支えてくれた人と結婚。
主人は双極性障害です。
母は不倫をしており、現在父との生活は破たんしているようです。
母は主人との結婚に反対しており、憎しみと嫉妬のかたまりになっているので、結婚後も嫌なことをしてきて、主人も私も嫌な思いをさせられました。
しかし、絶縁して逃げると決め、二人でなんとか助け合って生活しています。
「大きな一歩」 ―逃げると決めました。 - いつか、雨はあがる。
閉鎖病棟での生活2
「閉鎖病棟での生活1」の続きです。1の記事は
をご覧ください。
少しでも人に誇れる仕事に就くように、早く正規の職に就くようにという母の期待、
そして、お金があったら月1万でも2万でも送って欲しいと言う父の要望に駆り立てられながら、フルタイムの正規職についた私でしたが、うまくいかず、閉鎖病棟に入院することになってしまいました。
閉鎖病棟では、薬をちゃんと飲んだかどうかを看護師さんに見せないといけませんでした。口に薬を入れて、水を飲んで、口を開けて看護師さんに見せます。
当時の私の診断は、被害妄想のある「統合失調症」でした。
リフレックスという薬が処方され、私は正直飲みたくありませんでしたが、監視の中、飲まないわけにはいきませんでした。
刑務所のようで、ものすごく屈辱的でした。
当時の私は、自分の頭は正常でただ死にたい衝動が時々起きるだけだと思っていましたが、今思い返してみると、急に泣き叫んで
「母がおかしいんです!ほんとうです!」
と看護婦さんや医者に激しく訴えたりしていて、かなりおかしい行動をとっていました。
とても追い詰められた精神状態でした。
そんな興奮した状態で、いくら「母がおかしい!私はおかしくない!!」などと叫んでも、叫べば叫ぶほど周りの目は冷たくなりました。
「はいはい、いいから落ち着いて」
と、おかしい人を見る目つきであしらわれ、「電話をかけたい」とナースセンターの窓から呼んでも無視され続けました。
でも、それはしかたのないことでした。
カギのかかった閉鎖病棟と、正常な人が生活する向こう側では世界が全く違うのです。
私以外にも「電話をかけたいからテレフォンカードをくれ」とか「爪を切りたい」とか「おやつを買いたい」とか色々な要求を通そうとする人が、ひっきりなしにナースセンターの窓をたたいていました。
看護師さんは全ての要求に応じるわけにはいかなかったのでしょう。
私は分かってもらえなさに悔しく、どうしていいか分からず、ただただひたすら泣き続けました。テレビのある食堂のテーブルの隅で、ずっと突っ伏して、タオルを握りしめながら、泣き続けました。
私はおかしくなんかない!!
正常だ!
おかしいのは母だ・・・私の家だ・・・
そして、私を捨てて行った元彼も。
どうして誰も助けてくれないの?
どうやったら私は悪くないと分かってもらえるの?
一生懸命勉強したし、何もかも一人でやってきた。
関わってきた人たちには誠意を尽くして接してきた。
誰にも悪いようにはしていない。
水商売をしたこともあったけど、すべてはお金のためだった。
家族のためだった。
私は何もかも、全てけがれてしまった。こんなはずじゃなかった。
どうしてこうなってしまったんだろう?
統合失調症や認知症の女性が、時々心配して私を見に来てくれました。
「大丈夫?」と声をかけたりもしてくれました。
私はとてもそれが嬉しかった。
実家に電話をかけましたが、母は決して出ませんでした。
父が電話に出て、「そんなところにいたら大変だろう、どうしてそんなところに入ったのか。保険をかけておけばよかったのに、保険に入る前に入院をして」
と笑いながら言われました。
私の体調を慮る言葉などひとつもなかった。
でもそんな電話でも、私には嬉しかった。本当に保険をかけておけばよかった、と思いました。
私も笑いながら父に「早く退院したい」と言いました。
結局、私の両親が病院に来たり、私を迎えにくることはありませんでした。
日用品を差し入れたり、お見舞いにきてくれたのは、義父と義母と今の主人でした。
主人は私の状況を大変心配して、ひどく疲弊していました。
この入院の時、母がなんにもしてくれなかったこと。
私の体調を気遣ったり、励ましたりする言葉のひとつもかけてくれなかったこと。
私を無視し続けたこと。
このことが、私を諦めさせる一つのきっかけになったように思います。
アダルト・チルドレン(AC)という言葉
ACという言葉はどのような文脈の中で使うべきなのか?
機能不全家庭・・・つまり、なにか問題のある家庭や親の元で育ち、その「問題状況の中を一生懸命生きて大人になった人」のことをアダルト・チャイルド(AC)というそうです。
しかし、この「AC」という言葉は、さまざまな文脈の中で、異なる意味合いで使われることが多い。
「大人になりきれない未熟な人」という意味で誤用している人もいますし、アルコールや薬物、ギャンブルといった嗜癖がやめられない人の意味で使われている時もあります。
もっと乱暴なことを言ってしまうと、「私はACだから(共依存になってしまいがちだ、うつ病だ)」などと免罪符のように使っている場合もあります。
この言葉を使っている人自身も、何が正しい定義が分からず使っている節があるような気がします。
私自身も、この言葉を一体どういう風に使うべきなのか、よく分からないのです。
それで、私は「AC」という言葉があまり好きではありません。
「私はACだ」と自称することにも、なんだか違和感を感じています・・・。
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「私はACです」と言ったとき、それは何を意味するか。
以前、私はACA(アダルトチルドレン・アノニマス)というACの自助会に行っていたことを記事に書きました。
記事はこちら→初回カウンセリングに行ってきました。 - いつか、雨はあがる。
ACAはアメリカ発祥で、非常に良心的な団体です。
実際に行ってみたところ、HPに書かれている通り、集まりに料金はかかりませんでした。
お金を払うかどうかは参加者の気持ちで、袋が回ってきて、100円でも50円でもかまわない。出さなくても大丈夫です。
なので、もしお住まいの地域でミーティングが行われていれば、お財布にやさしい癒しの会であることには違いないです。
しかし、合う合わないがあると思います。
『ACのための12のステップ』というテキストを輪読して、勉強していくのですが、
しかしこのテキストの翻訳があまり上手くなくて読みにくい上に、キリスト教的な考え方が背景にあり、クリスチャンでない私には理解しにくいものでした。
また、「分かち合い」という独白を一人一人順番にやっていく時、話始める前に「ACの〇〇です」と名乗り、それに対して周りの人が「はい、〇〇」と応じて、話を始めます。
私は「ACのかな子です」と名乗って話し始めたわけなのですが、そのように名乗ることになんとなく抵抗を感じて、だんだん行かなくなってしまいました。
多分、ACだと自称するとき、他人がどう思うかなど関係なく、「自分は幼少期から心に傷を負ってきた」と自覚することが大事なのでしょう。
しかし、一口にACと言う時、そこには
「私はAC(で、依存症に現在進行形で悩んでいます)です」
「私はAC(で、依存症は必至の苦労で脱却し、今幸せになろうともがいています)です」
「私はAC(で、普通に日常生活を送れていますが、メンタルケアが必要で求めています)です」
と、言外にいかようにも読み取れ、その人がどの段階にいるかは、その人個人にとってはすごく大きなことであり、ひとくくりにはできないと思うのですが、どうでしょうか・・・。
ゼニカメの赤ちゃんは成長期
今日はとっても暑いですね。
熱中症になってもいけないので、初めてエアコンを付けました。
飼っているカメの水温も30度。
日光浴は暑くない朝のうちにすませ、水温がこれ以上上がりすぎてはいけないので、扇風機を当てています。
カメのえさやりの動画を撮ってみました。
手からエサを食べるようになって、かわいいです。
私が一番怖い母は、本当は誰よりも弱い人間だった
明日は仕事が突発で休みになりました。
ゆっくりできるぞーと思ったのですが、義父の保険の担当の方がお話に来るのと、主人の通院の日になっているので付き添って、一日が終わりそうです。
私も30を過ぎたので、医療保険に入ろうと思っています。
私の両親は、不慮の事故や病気への備えや、将来のための貯金といったものを全く考えない人でした。
日銭を稼いでその日暮らし。
なので、医療保険や生命保険にしっかり入っている婚家は、私にはほんとうにきちんとした家に見え、甘えて相談にも乗ってもらっています。
私は母の見立てたきれいな服を着て、私立の学校にも通っていましたので、幼い頃は自分がそこまで貧しいとは思っていませんでした。
しかし、内情は火の車だったので、家の中はいつも窮々とした緊迫感、不安感に満ちていました。
母は見栄や体裁を取り繕うことしか考えておらず、自分が恥ずかしい思いをしないためには惜しげなくお金を使いました。
「かな子に恥ずかしい思いをさせたくない」
というのが母の言い分でしたが、私の周りの友達で、服を何着も買い替えたり、靴や鞄をファッションに合わせていくつも持っているような子は誰も居ませんでした。
兄も母が見立てたブランドの服ばかり着ていました。そして、当時発売されていたあらゆる種類のゲーム機を持っていました。
ソフトもたくさんあったので、近所の友達が珍しがって家に集まり、ゲーム目当ての悪ガキのたまり場のようになっていました。
冷蔵庫も勝手に開けて、ジュースやお菓子もどんどん持っていくのです。
私も追いかけられ、スカートをめくられたりしたこともあり、嫌でたまりませんでした。
ゲーム機をうらやましく思った上級生が、うちから泥棒して持って行ったこともあります。
兄の名前を書いてあったので、後で見つけて取り返したそうなのですが、その上級生も貧乏な家の子で、何か月かしてどこかへ引っ越していきました。
きっとその子はうちが大変なお金持ちだと思っていたでしょう。
私はいつも母から「うちにはお金がないんだ」と言われ続けていましたので、外食に連れて行かれた時も、私は怖くて遠慮して、いつも一番安いものを探して注文しました。
兄は反対に、一番高いものを頼んでいました。
兄はなんでも高いもの、豪華なもの、ブランドものが好きなのです。
母は「仕事が大変だ、家事ができない、忙しすぎる。私にしかできない仕事だ」などといつも言っており、私はそれを信じて、母を働かせる父を恨んだり、母を不憫に思ったり尊敬したりしていました。
しかし、今考えると、母の仕事は自営の手伝いで誰に気兼ねするでもない仕事でしたし、せいぜい1日5時間くらいの勤務でした。
今、私は非正規の仕事で働いていますが、鬱っぽさと戦いながらも、なんとか家事と仕事をこなして、毎日自炊もし、家計簿をつけて倹約しています。
毎日たくさんの人と会わなくてはならず気を遣いますし、上司や同僚との折衝もあります。
しかし、役職も無く責任は軽いですし、ほかの人よりずいぶん楽をして生活させてもらっていると思います。
もちろん、自営は自営での苦労や大変さがあるわけなのですが、こうやって自分が仕事をするようになって、母の言っていたことを改めて考えてみると、腑に落ちないことばかりです。
母の仕事は経営者が父なので色々と融通も効きましたし、母の不平不満が大変に過度なもの、誇張されたものだったのではないかと思わずにはいられません。
また、母は気まぐれにしか食事を作らず、私は小学生の時から代わりに料理をして、兄に食べさせていました。
私は「母は仕事が忙しいから仕方ない、少しでも役に立たなければ」と思ってやっていましたが、1日5時間の仕事は、はたして食事を作れない程大変なものだったのでしょうか。
母があんまりにも父の悪口を言うので、高校生の私は母に言ったことがあります。
「お父さんの仕事のやり方がそんなにだめなのなら、お父さんに変わってお母さんが経営したらどう?お母さんならきっとうまくできると思うよ」
その時の私は、母の「自分がいかに高い能力を持っているか、そして父がどれほどだめか」という話を、全て鵜呑みにして信用しきっていましたので、母をかわいそうに思い、非常に純粋な気持ちから母に提案したのです。
ところが、母はすぐにこう答えました。
「そんなのできるわけないじゃない。無理よ。」
さんざん父を馬鹿にし、「自分ならこうするのに、父は頭が悪いから仕方ない」と言い続けてきた母のその言葉に、私は違和感を感じました。
そんなにちゃんとした自分の考えがあるのに、この人はなぜ自分で経営をやろうとしないんだろう・・・?
大人になるに従いだんだん分かってきましたが、母は他人を恨んだり、文句を付けたりすることは人一倍なのですが、自分では結局しんどいこと、辛いことを絶対にやろうとしないのです。
さんざん文句を言った挙句、じゃあ自分でやればと言うと「まさか。お母さんにはそんなことできない」と、逃げるのが常なのです。
そして、過剰に自分の能力を誇示しようとするのですが、実際はものすごく自信の無い人なんだということも、最近になってなんとなく分かってきました。
結局、母は「お金が無い。子どもを育てることができない」などと散々子どもに言いつつ、自分が外に働きに出るわけでもない。
いつも自分は安全圏に居つつ、いつか誰かが(たぶん父が)どうにかしてくれるだろうと待っていただけの人なのでした。
元々専業主婦希望だったのを、無理やり働かされたとずっと根に持っていましたが、大金持ちの男性に嫁いだのならともかく、父のような人を選んでおいて、本当におかしな話です。
「そんなに父に文句があるなら離婚したら」と言ったことも何回もあります。
でも母はそうしようとは決してしませんでした。
そして、自分の力で現状を変えることは無く、ただただ私に愚痴を吐き続け、暴力をふるい続け、いつも頭痛やめまいや不眠、いろいろな不定愁訴にずっと苦しんでいました。
私は、社会人になってから、何人かのシングルマザーの方と知り合いました。
シングルになった理由はいろいろとあるようなのですが、自分の力で外に働きに出て、子どもさんを育てていらっしゃる女性です。
子育ての悩みもあるようですが、そういう方を見ると、自分の力で自分が幸せになる道をきちんと切り開いていて、本当にすごいなと思います。
相当の努力をされているからこそ、できることだと思います。自分を自分で幸せにできる力のある人は、周りの人を幸せにすることもできるのだろうと思います。
問題は先送りでもいい。
雨が降りそうで降らない一日でした。
朝は相変わらず憂鬱でしたが
自分のことにとらわれ過ぎない
人にどう見られるかを考えすぎない
「仕事してやってる」くらいの気持ちで適当にやる
と言い聞かせながら出勤して、なんとか仕事を終えました。
誰かに言われたわけではないのですが、あまりに追い詰められて苦しくなってきて、
非現実感というか、離人感というか、頭のうしろから第三者的に自分を見ているようなそんな感じがしてきたので、まずいなーと思って、あんまり考えすぎないようにしようと思いました。
きっと自分が抱えているような問題は、多くの人が同じように抱えていることであり、そして些細な出来事にちがいないと思います。
深呼吸して、遠くの緑(木や草など)や空などを見るようにこころがけ、自分の内面ばかりに目がいきすぎないようにしようと思っています。
体がだるくない時には、運動したりするのもいいんでしょうね。
私はふらふらするのですが、座ったままでできるヨガのポーズなどから始めてみています。
今日は仕事でちょっと助けてもらえたりしてありがたかったです。面倒も多いけれど悪いことばかりではありません。
ニュースを見ていると、なんだか物騒な事件が続いているみたいですね。
食品に針を入れたり、児童に対して暴力をふるったり、世の中全体の鬱憤がものすごくたまっている気がします。
この天気のせいもあるのでしょうか。
おだやかな心で、他人も自分も傷つけずいられるように、うまく自分をコントロールしたいです。
心を癒すためには質の良い睡眠と、胃腸にやさしい食事が大事です。
すぐには解決できない問題もいっぱいありますが、とりあえず今日は忘れて、まずは休んで体力を回復しましょう。元気になれば、いい解決策も浮かぶはずです。
このブログを見ている疲れた方が、今晩もゆっくり眠れますよう。